年間第7主日A年

福音=マタイ5:38-48


「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48

 

  今日の福音で「完全な」と訳されるテレイオスの語源は、「目的」とか「終わり」を意味するテロスである。「終わり」は物事が完成したり、目標が達成された状態なので、それは完成されたもの、完全なものという意味を表すわけだ。言葉の意味をもっと遡ると、これはある段階が終了し、次の段階が始まるべく絶頂に達した転換点を意味する。したがって、この言葉が十全な意味で適用されるのは、やはり神のみということになる。

 それでは、この言葉が人間に適用されたときには、どのような意味になるのだろうか。テレイオスというギリシア語は、旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)において、物事の全体性、損なわれていないさまを表すときに使われる。特に、自分の在り方を全面的に神との交わりに置いている状態を表す。つまり、人間が「完全で」あるとは、その人の振る舞いが分裂していない全体性を意味する。マタイもこの意味で「完全な」という言葉を使う。マタイは、キリスト者がひたすら神のように「完全で」あることを目指して生活していくというように理想化していない。もしそうであるなら、それは非現実的な理想にすぎなくなってしまう。マタイが言う、キリスト者の「完全さ」とは、終わりの日に一人ひとりに与えられ、約束されているものである。それは、今の現実の生活にあって、終末論的な完成の時を予感し、それを期待することなのである。天の父の「完全さ」が、キリスト者に「完全さ」を保証してくれるのだ。