主の洗礼(B年) 

 

福音=マルコ1:7-11


「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)

 

 「主の洗礼」についての叙述は、共観福音書すべてが伝えるが、各書の強調点には違いが見られる。

 マタイ(3:13-17)では、洗礼者ヨハネに対するイエスの優位を示す固有の記事(14-15節)が見られる。その後に続く洗礼の場面で強調されているのは、「天が開かれた」と「天からの声が言う」の二つである。

 ルカ(3:21-22)における洗礼の場面は、ギリシア語本文では、ひとつながりの文で書かれており、その中心点は、「天が開かれる」、「聖霊が降る」、「天からの声が来る」という三つの出来事にある。

 これらに対して、マルコでは、イエスの三つの行為-「来た」・「洗礼を授けられた」・「見た」-に中心があるので、強調点はイエス自身に置かれている。また、この場面に他の人々が立ち会っていないかのごとく描かれているのもマルコの特徴である。そうであるなら、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という天から「来た」声は、誰にも聞こえるものではなく、イエスに自らの使命を自覚させる内的な声と言える。洗礼者ヨハネの使命が「荒れ野の声」によって象徴されるとするなら、イエスの使命は、神の国の到来を告げる「天からの声」であり、その声は静かに人々の心に響く。この「天からの声」には、第二イザヤが語る「主の僕」の預言が響いている。

 「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。

  わたしが選び、喜び迎える者を。

  彼の上にわたしの霊は置かれ

  彼は国々の裁きを導き出す。

  彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」(イザ42:1-2)

 

 イエスが洗礼を受けた時に聞いた「天からの声」は、「主の僕」の使命をイエスに授けるものだった。その使命とは、自らの「生と死と復活」によって、旧い契約のもとにある「古い人」を「新しい契約」に生きる「新しい人」へと生まれ変わらせることにある。私たちは、洗礼によって、このような新しいキリストのいのちに生きる恵みを与えられたと同時に、それにふさわしく生きる使命をも授かった。