聖母の被昇天(祭日)

福音=ルカ1:39-56


「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(ルカ1:48

 

  きょうの福音は「エリサベトの祝詞」と「マリアの賛歌」(マグニフィカト)が朗読されるが、どちらも旧約聖書にその背景があり、特に「マリアの賛歌」はその一句一句に旧約聖書の反響が見られる。マリアは自分を「主のはしため」と言う。旧約聖書において、神の「しもべ」、「はしため」は、神に捧げられた生活のすべてを表わす。マリアの言葉は完全にこの伝統に基づく。それは神の意志に全く従い、自らを委ねる覚悟ができていることを意味する。それとともに「主のはしため」とは、マリアがイスラエルの「貧しい者」の一人であることを表わす。

  主の「貧しい者」とは、「神の民」すなわち「神からその使命を担うべく選ばれた共同体」の失われた成員を意味する。その対極に、彼らが失われる原因を成した者がいる。聖書が語る「救い」とはこうした「喪失の回復」である。それゆえに、「貧しい人」は主によって高められて喜び、「高ぶる者」は低められると言われる(50-53節)。「神のしもべ」、「主の貧しい者」は最初「聖なるはしため」イスラエルを人格化したものとして登場するが、後には預言書の中でメシア自身を表わすものとなる。

このような「貧しい者」の思想は、マリアの中に受け継がれている。マリアは主によって高められた「貧しい者」、神の救いはまず彼女のうちに成就する。