聖家族(C年) 

 

福音=ルカ2:41-52


「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52

 

 ルカ福音書はイエスの誕生物語の後に、神殿における十二歳のイエスの物語を伝える。物語の背景はユダヤ人の成人儀式(バルミツバ)である。ユダヤ人にとって一人前の人間の要件は「議論できる」ことであり、成人儀式としてそれを試す試験もあった。したがって、きょうの福音は元来、イエスの人間的成長を伝えるエピソードと思われる。しかしながらこの話はふつう、イエスの神性ゆえに備わる超人的知恵の発露を語る出来事と受け取られているようだ。

 

 これについては、新約外典に描かれているイエスの幼年物語と比較するとその違いがはっきりする。『トマスによるイエスの幼年物語』は、ルカ福音書の幼年物語の空白部分を埋めるかのように、五歳から十二歳までのイエスの幼年物語であって、ルカ福音書の「神殿における十二歳のイエスの物語」で終わる。『トマスによるイエスの幼年物語』が描く「神殿における十二歳のイエスの物語」は、ルカ福音書からほとんどそのままの形で取られているが、少年イエスは学者たちに聞いたり、尋ねたりするばかりでなく、律法や預言者についての解釈を行なう。これはルカ福音書では復活したイエスが行なう行為である。すなわち、ここで強調されるのは、少年イエスの持って生まれた異常な知的能力である。これによって『トマスによるイエスの幼年物語』は、イエスの超自然的能力や知恵が後天的な修練や学習によって獲得されたものではなく、先天的に備わっていたと主張することによって、イエスの神性を疑い得ぬものにしようとしている。だが、こうした護教論的意図はグノーシス的仮現論に傾く危険を帯びている。『トマスによるイエスの幼年物語』がイエスの能力の進歩を視野に入れないのと比較するなら、ルカ福音書がイエスの人間的成長を前提としていることがはっきりと浮かび上がってくる。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(52節)。こうしたイエスの人間的成長は「両親に仕えて暮らす」(51節)生活の中にあった。そして、母マリアもまた「これらのことをすべて心に納めて」(51)少しずつ人間的に成熟していった。「聖家族」とは最初から完璧な理想的状態としてあるのではなく、日々の生活にあって神と人々に導かれながら少しずつ成長していくものであり、それは「旅する教会」の姿でもある。