王であるキリスト(B年)

 

福音=ヨハネ18:33b-37


「お前がユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33b

 

 ユダヤ総督ピラトの関心事は、イエスが「王」であるかどうかに絞られている。彼にとって「王」とは、政治的な力と権威を持つ者のことであり、それはユダヤ人たちがローマからの解放者として待望している「あの王」(18:33)のことであった。ピラトはイエスがそのような危険人物かどうかを知ろうとする。

 そもそもイスラエルの王制は周辺諸国に比べてはるかに遅れて導入された。それは、王制に否定的な考えが根強かったからだ。他のオリエント諸国では、国の起源を神話的に語るが、イスラエルはそのような神話を持たない。「イスラエル」とは、神ヤーウェによってエジプト(奴隷の家)から解放された民のことである。イスラエルをイスラエルたらしめているのは、神の救いの出来事であって、歴史のうちに出来事となった神の業がイスラエルを生み出した。イスラエルの自己理解が神の解放の業に基づいているなら、生活の中心に置かれるべきは、神の意思・ことばである。神ヤーウェが彼らに自由を与え、約束の地で生きる恵みを与えたのだから、彼らにとって神ヤーウェ以外の支配者がいてはならないのである。

 しかし、紀元前11世紀の後半に、隣国ペリシテの脅威にさらされたイスラエルは、独立を守るために、やむなく王制をとった。王の職務は神の思いを現実社会に実現することであり、王を仲介して神の意思が地上に満たされる、これが理想の王と考えられた。しかしながら、現実の王は自分の財産と地位を保つことに懸命で、この理想像から遠く離れていたので、いつの時代の王も預言者の批判を受ける。

 イエスがその生涯をかけて宣べ伝えた「神の国(支配)」とは、こうした旧約時代を通して受け継がれてきた思想(理念)の実現なのだ。それは、人が人を支配するあり方そのものを越えたところに初めて実現される。王は、神の思いがどこにあるかを知り、それを忠実に実行しなければならない。イエスは王のなすべきことを果たそうとするが、それは力(権力・武力)によってではなく、「十字架」の道による。イエスは十字架を担ぐ王として神の支配を地上に実現する。イエスによって明らかにされたこの神の国の福音こそが「真理」なのである。この「真理」こそが、人が人を支配するあらゆる制度を打ち砕く。