王であるキリスト(A年) 

福音=マタイ25:31-46


「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40

 

 今日の福音は以下のように構成されており、34-40節と41-45節の間に対応関係が見られる。

 このような肯定と否定の反復によって、神ご自身の姿が強調される。「わたしは飢えていた」、「わたしは渇いていた」、「わたしは寄留者であった」、「わたしは裸であった」、「わたしは無力であった」、「わたしは牢にいた」と、神は繰り返し語る。つまり、神ご自身が「最も小さい者」となられたということだ。

 当時のユダヤ人たちが「小さい者」への配慮を命じる掟を知らなかったはずはない。こうした社会的弱者に対する保護規定は決してイスラエルにだけ見られるものではない。イスラエルにとって、このことは彼らの信仰の根幹にかかわることだった。彼らにとって「小さい者」を保護することは、「小さい者」であった自分たちの祖先にもたらされた神の救いの業に基づいている(申7:6-8)。つまり、「小さい者」への配慮とは、救いを当てにしての行為ではなく、すでに神から与えられている救いが要求する行為なのだ。このことを忘れるなら、「小さい者」への配慮は偽善となりやすい。神が先に与えてくださる救いに気づくこと、それが私たちを「小さい者」へ向かわせる。神は自ら「小さい者」となることによって、それを私たちに教えてくださった。