復活節第6主日(B年) 

福音書=ヨハネ15:9-17


「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12

 

 きょうの福音は、イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに語った「告別説教」の一部である。イエスは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と繰り返し言う。このイエスの「愛」の掟について、教父学者である坂口ふみ氏は自著の前書きで次のように述べる。

 この問題(「福音」、つまりイエスのよきおとずれ、と「文化」、つまりギリシアの人びとがパイデイアと呼んだ、人びとの文化的、社会的教化に必要な学芸との関係をどう考えるかという問題)を何度でも再燃させるのは、イエスの教え自体のうちにある文化への批判性、破壊性である。それはまた、あらゆる宗教の中にある要素だろう。このような破壊性は、仏教ではめだって全面に出てきている。絶対なものは、空、無などと好んで否定的な表現で語られる、(中略)しかし、イエスの教えは、愛ということばを使うゆえか、それよりは優しく、どこまでも「人」の姿を積極的なものとして残す。仏教風に言えばそれは人間中心性、擬人性の残る不徹底な思想だろうし、事実、その人間中心性が人間主義の傲慢へとつながることもあったろう。とくにその「人間」が、白人種やヨーロッパ人や「正統キリスト教徒」だけを意味すると考えられたりする場合、この思想のもたらす害悪と残虐は、極端なものとなりえた。

 しかしもちろんイエスの説いた「愛」は、抽象的とも言えるほどに純化されたもので、本来はそのような差別化にこそ対立するものだった(中略)あらゆる属性を相対化する愛であるならば、それはほとんどの人間と他のものをも相対化する。「山川草木悉有仏性」と言われるのに近い、「存在への愛」としか言えないような透明なものであるだろう。それは友愛や、恋愛や、親子の愛とは大きなへだたりのある、仏教の「無」にも通ずる、いわば冷たい愛だと言えるかもしれない。

 しかし、キリスト教はどこまでも「愛」という語を捨てない。ということは、そこに、あらゆる人間の属性を超えた根底に、「関係性」が浮き上がってくるということではないだろうか。(中略)「人間」の核心として、このような「関わり合う能力」を置く思想は、やはり深い洞察を含む思想であると思われる。(中略)

 関係性を存在の根底に置く考えは、仏教の思想の中心にもある。(中略)しかし、キリスト教は、けっして我や他者を消しつくすことはなく、さらにそこで愛という語を使い続け、いかに遠いといっても、友愛や親子の愛や、恋愛のアナロジーを否定しなかった。そしてイエスという、「範型的に愛する人」の具体的なおもかげを、教えの中心から消し去ることをも、けっして許さなかった。(中略)

 冷徹なスコラ哲学の鉄のような体系の中心に、そして恐るべき階級組織を持つ教会の中心に、ひいては近代のさまざまな抽象化する学の根底にも、このすべてを相対化する生身の具体的な「愛する人」が座っていることは、逆説でもあり、救いのようでもあり、悲劇のようでもある。(坂口ふみ著『<個>の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店 1996年、P.25-27

 

6~7世紀に描かれたコプト教会のイコン。キリストが修道院長聖メナの肩に右手をまわし、並んで歩いています。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハ15:15)ということばを表わしたかのような構図です。