待降節第3主日(C年)

福音=ルカ3:10-18


「わたしたちはどうすればよいのですか」(ルカ3:10,12,14

 きょうの福音において、洗礼者ヨハネが語る相手は、前半は「群集・徴税人・兵士」であり、後半は「民衆」となっている。ヨハネは、「群集・徴税人・兵士」の問いに答えて、彼らの行なうべきことを教える。「(わたしたちは)どうすればよいのですか」という問いは、ルカ福音書や使徒言行録では、救いを求める人、あるいは神の求める生き方を探求する人によって発せられる。したがって、きょうの福音の前半に登場する「群集・徴税人・兵士」は、ヨハネの説教を聞いて心を燃やした人々と言える。
 道を求めるこれらの人々と、後半に登場する「民衆」とは、どのようなつながりがあるのだろう。この「民衆」は、ルカ1:17で次のように言われている。「彼(洗礼者ヨハネ)はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
 これによると、ルカにおける「民衆」とは、「救いを受け入れる用意のある民」の意味で使われていることがわかる。そうであるなら、心は燃えていてもまだ「群集」に留まっていた人々が、ヨハネの具体的な指示を聞いて救いを受け入れる用意の整った「民」に変えられたと言える。しかもその「民」は「待ち望んでいる」民と表現されており、ヨハネの説教によって彼らの心に芽生えたメシア到来への期待がふくらんでいく様子が表されている。
 こうして「群集」から「民」に変えられた人々にヨハネは語りかけるが、ルカは特に「皆に向かって」ということを強調する。ルカにとって救いは、全世界へと拡大し、すべての人を覆い尽くす力なのだ。したがって、ここで言われる「皆」とは、この物語に登場する民衆を指すと同時に、やがて「民」となるすべての人をも含んでいる。ヨハネのもとに来て「民」とされた群集に働きかけた力は、やがて全世界に満ちることになる。
 群集を「民」に変えた力は、その「民」を「待ち望む」者にする力でもある。そしてこの「待ち望む」ことは神を信じる人々の姿でもある。「待ち望む」とは、押し寄せてくる救いの力に積極的に呼応することである。「待ち望む」思いが救いの力をさらに広げる。「福音を告げ知らせる」とはまさにこのことだ。