年間第8主日A年

福音=マタイ6:24-34


「空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」(マタイ6:26,28

 

 自然のなかに神の息吹を感じ取ることに長けた日本人キリスト者にとって、「空の鳥、野のゆり」は、心にしっくりくる聖句の一つである。ところが、実際は、「鳥」は「からす」、「ゆり」は「アネモネ」らしい。この聖句が出てくるマタイ6章26節・28節とその並行箇所であるルカ1224節・27節を現行の日本語訳聖書と代表的な英訳聖書で比較すると、日本語、英語とも、「(野の)花」か「ゆり(の花)」に分かれる。ここで使われているギリシア語「クリノン」は辞書によると、「ゆり」とも訳しうるが、アネモネ、グラジオラスなども意味しうるとある。また、ソロモンの衣が紫色なので、アネモネとする説もある。一方、これと対比されているのは、マタイでは「鳥」だが、ルカでは「からす」である。「からす」は神の使者でもあるが(王上17:4)、イエスの時代の人々にとっては、不浄の鳥であったろう(レビ11:15、申14:14)。からすにせよ、野原の花にせよ、どちらも人に嫌われたり、踏みにじられたりする存在である。マタイ版の「空の鳥、野のゆり」はなんとも牧歌的だが、ルカ版の「空のからす、野の花」は社会学的な意味を持つだろう。要は「ゆり」か「アネモネ」かという植物学的な問題ではなく、わたしたちキリスト者のアイデンティティの問題なのだ。社会の「からす」的、「野の花」的な人々を、この世の支配者よりも高めてくださる神、これがわたしたちキリスト者の神である。イエスはそのことを身をもって示した。わたしたちもそれに倣うように呼ばれている。