年間第6主日(B年)

福音=マルコ1:40-45


「『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(マルコ1:41-42

 

 今日の第一朗読は、ローマ規範版の『ミサ朗読配分』ではレビ記13:1-2,44-46(皮膚病に関する規定)となっており、創世記3:16-19は、日本の教会のための独自の箇所である。創世記3章の直前に置かれる2:4b-25は、「第二の天地創造」である(ヤーウェ資料と言われる。これに対して「第一の創造物語」である1:1-2:4aは祭司資料と言われ、バビロン捕囚期に成立したと考えられる)。そこでは、人間社会の根幹をなす理念が掲げられており、聖書全体の序文としてそれが目指すべき方向を指し示す。そこでは三つの理念が提示される。第一は生命の尊厳。人は神から「命の息を吹き入れられ」て「生きる者」となる(2:7)。第二は労働の尊厳。神は人を「エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。古代世界では労働は奴隷が行うものとされた。ところが、人間社会の理想的な場として想定された「エデンの園」-その意味で「楽園」は過去ではなく未来にある-では、労働は神から与えられた使命として位置づけられている。第三は男女の平等。「彼に合う助ける者」とは、「人」と「対等に向き合う」存在を意味する。ヘブライ語で「人」-ここでの「アダム」は定冠詞付きの普通名詞で、「アダム」という人名ではない-は男性名詞なので代名詞は「彼」とならざるをえないが、「人」はまだ性別を持たない。「男のあばら骨から女が造られた」と言うよりは、「人から彼に合う助ける者が造られたときに男と女に性が分化した」とするのがより正確な理解と言える。こうして男と女は対等な共労者として生活を始める。しかしながら、このような理想的な在り方は、人に与えられた自由の誤用によって壊される。第一朗読は、壊れによってもたらされた人間の状況を描く。男女の対等な関係は壊れ、従属関係が生じる。神から与えられた使命であった労働は苦役と化す。そして神から授かった命は死の陰に脅かされる。創世記はさらに「カインとアベル」、「バベルの塔」によって、第二、第三の「壊れ」を語る。この11章までが序文で、いよいよ12章からこの「壊れ」がアブラハムから始まる「神の民」の歴史を通してどのように回復されるかをたどっていく。今日の福音はその後の紆余曲折を経た「神の民」の「壊れた」状況を背景とする。「壊れ」はいまだ回復されていない。イエスによる重い皮膚病患者のいやしをめぐる出来事である。病気は単に身体的健康の損傷によって病人に苦痛をもたらすだけではなく、病人を社会的な疎外と差別の中に突き落とす。したがって、病気のいやし-祭儀的に表現するなら「清め」-は、健康の回復とともに社会的権利の回復をも意味する(レビ記の規定による祭司の宣言と献げ物)。病人を疎外し差別する社会の在り方への憤りと、病人への共感によって激しく心動かされたイエスは、二重の苦しみにあえぐ病人をいやす。しかしいやしの業を行ったイエス自身が今度は、社会的疎外状態-「町の外」-に追いやられる。そして最後にはエルサレム城外で十字架に架けられることになる。城壁は人と人とを隔てる目に見える壁であると同時に、疎外と差別をもたらす目に見えない社会的な壁を象徴する。人間が理想とする在り方を壊す「罪」は、人間らしい生き方を疎外する原因を作り出す様々な物・事だ。「隔ての壁」を作り出す原因は個人の内にもあり、社会の内にもある。イエスは自らが城外で十字架に掛けられることによって、この「隔ての壁」を打ち砕き、人類創造のときのあの理想を実現する人間性を私たちの内に回復してくださった。