年間第5主日(C年)

福音=ルカ5:1-11


「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5

 

 きょうの福音においてイエスは「神の言葉を聞こうとして」イエスの周りに押し寄せてきた群衆に教えを語る。イエスは確かにこれらの群集に神の言葉を語ったが、きょうの福音の出来事の中心はそこにはなく、シモンと彼の漁師仲間たちに起きた出来事に中心がある。群集たちはいつのまにか姿を消してしまう。どうしてイエスは「神の言葉を聞こうとしている」群集ではなく、たまたまそこに居合わせたとしか思えない漁師たちに特別な体験をさせたのか。その理由はよくわからないが、ここで言えることは「神の言葉を聞く」ということをめぐって、群衆と漁師たちが対比されているということだ。きょうの福音は、神の言葉を聞くとは群集のようであってはならない、それは漁師たちのようでなくてはならない、そう語っている。

 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスから言われたシモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。ギリシア語本文のニュアンスを出すなら「あなたの言葉の力に基づいて、わたしは網を降ろします」となる。つまりシモンはイエスの言葉に、漁師としての経験に基づく知識を越える力を感じたのだ。ここで使われている「言葉」はレーマというギリシア語だが、このレーマには「言葉」という意味の他に「出来事」という意味もある。シモンはイエスの言葉に言葉だけに終わらないリアリティを感じたと言ったらいいだろう。だから、彼とその仲間たちはイエスの言葉どおりに実行した。そしてその言葉は大漁という現実の出来事となって現れる。彼らは驚く。しかし、それは自分たちの漁師としての経験的知識を越えた大漁という表面的な現象に対してではなく、イエスの言葉がまさに出来事となったがゆえの驚きである。その驚きが彼らの中に、言葉(レーマ)を語る者イエスへの畏敬を呼び起こした。そのとき、イエスはシモンにすかさず次なるレーマを語りかける-「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。シモンは何のことかよく理解できなかったろう。だが、イエスの言葉の力を目の当たりにした彼は、イエスが語られるレーマであるからには必ず語られたとおりになると思ったにちがいない。だからこそ彼とその仲間たちは「すべてを捨ててイエスに従った」。

 群集にとって神の言葉はそれを聞いた一時だけは熱狂させるものであっても、いつしか消え去ってしまう単なる言葉にすぎない。しかし、神の言葉をレーマとして聞こうとする者の前に、言葉は決してむなしく消え去りはしない。それは必ず出来事となって現れる。そして現れた出来事はその人をそこに留め置かず、その人は出来事となった言葉に突き動かされて、そのレーマを発する源に向かわざるを得なくなる。「すべてを捨てて従う」とはイエスの言葉への熱い応答なのだ。