年間第3主日(B年)

福音=マルコ1:14-20


「二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:18

 

 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まる。マルコにおいて、「福音(エウアンゲリオン)」とは、イエスを通して示された救いの訪れを意味する。これに対してマタイでは、「御国(バシレイア)の福音」という形で使われる(4:32 / 9:35 / 24:14)。ルカでは常に、「福音を告げ知らせる(エウアンゲリゾー)」という動詞形で使われており、マルコ的な意味で使われる箇所(2:10)と、マタイ的な意味で使われる箇所(4:43 / 8:1 / 16:16)が見られる。ルカの特徴として、「貧しい人々」に「福音が告げ知らされる」(4:18 / 7:22)という点があげられる(「民衆」の捉え方によっては、3:18 / 9:6 / 20:1もこれに含めることができる)。

 ところで、マルコにおける「福音」には、次のような二つの特徴が見られ、これらは今日の福音にもはっきりと表れている。

 1)「福音」のために、家族・財産・命を「捨てる」(8:35 / 10:29-30)。

 2)「福音」はあらゆる民に宣べ伝えられる(13:10 / 14:9 / 16:15)。

 ユダヤ人たちが、洗礼者ヨハネを拒否したので、イエスの宣教はガリラヤで始められる。マルコは、イエスが「福音」を宣べ伝え始める「ガリラヤ」を異邦人の地として描く。だが、歴史的には、イエスの時代のガリラヤは明らかにユダヤ人の地であったので、そこにはマルコの神学的意図がある。「福音」は宣教活動の最初から、異邦人をもその対象としていたということをマルコは伝えたかったのだろう。また、イエスは自分に従おうとする者に対して、「わたしのため、また福音のために」(8:35 / 10:29)、家族、財産、そして自分の命をも「捨てる(アフィエーミ)」(10:29)ことを求める。この言葉通りに、四人の漁師たちは網を「捨て(アフィエーミ)」(1:18)、父を「残して(アフィエーミ)」(1:20)イエスに従った。しかし、彼らが家族や財産を捨ててイエスに従ったのは、永遠の命という報酬を求めてのことではない。イエスの出会いと信従の呼びかけに、「救いの訪れの喜び」を実感したからだ。家族や財産を捨ててイエスに従うから救われるのではない。「神の国は近づいた」(1:10)という喜びが、悔い改めと信仰を呼び起こし、他の一切を捨てさせるのだ。