年間第29主日(A年) 

福音=マタイ22:15-21


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21

 

 今日の第一朗読の「イザヤの預言」は、紀元前6世紀のバビロン捕囚の終わり頃の「第二イザヤ」に属する。イスラエルの歴史は、古代オリエント世界全体の動きと密接に関連して動いていく。イスラエルの信仰(思想)形成にとって、バビロン捕囚という出来事は、非常に大きな要因となった。神の選びによって「神の民」となった自分たちが、どうして滅びを体験しなければならないのかという深刻な問いに直面した。その意味でバビロン捕囚は民族の存立にかかわる大事件だった。それだからこそ、この捕囚からの解放は出エジプトの出来事に匹敵する大きな救いの体験となった。

 主なる神は、ご自分の僕イスラエルを救うために、異邦人であるペルシア王キュロスさえもお使いになる。「油注がれた人(メシア)」とは、神から特別な使命を授かるとともに、それを果たす力を与えられた人のことである。したがって、キュロスが地上でいくら力があっても、それは神からくるものであり、キュロスは神の道具にすぎない。歴史を支配し、導いておられるのは地上の王ではなく、唯一の神である主(ヤーウェ)なのだ。歴史の動きをこのように捉えることを忘れなかったなら、イエスの時代に地上の権力者であったローマ帝国という存在を前にして、「神か皇帝か」という二者択一的な考え方に陥らずに済んだだろう。

 すでに第二イザヤは、神の救いがイスラエル民族という枠を越えて、全世界に広がっていくビジョンを示した。そしてこの新しい歴史的展開に大きな役割を果たしたのが、パウロを初めとする使徒たちの宣教だった。そこでは、「わたしの選んだイスラエル」(イザ45:4)とは、異邦人の教会だった。今日の第二朗読において、テサロニケ教会の信者たちは「神から選ばれた」(1テサ1:4)人々と言われている。

 いつの時代にも地上の権力者は存在する。しかし、キリスト者は主なる神こそが真の権力者であることを知っている。この世の権力に負けることなく、「神のものは神に返す」ことを忘れないようにしたい。