年間第28主日(A年) 

福音=マタイ22:1-14


「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」(マタイ22:8

 

 今日の福音において、マタイは「天の国のたとえ」を語る。このたとえの中に出てくる「婚宴」とは、天の国での喜びを表す。神は自ら天の国の宴の「用意をして」、それに人々を招くが、招かれた人々はその招きに応えようとしない。

 今日の福音における「天の国のたとえ」の中心は、天の国そのものについて語るというよりは、天の国に対する、神と人間の両者のあり方について語る。このたとえによると、天の国は神が「用意して」くださる。問題は、人間が「用意している」かどうかということなのだ。

 新約聖書において、この「用意する」という言葉は、神と人間の関係を表す大切な言葉である。

 -洗礼者ヨハネは、主が来られる道を「用意する」ように人々に語った。

 -しかし、人々は真に主を迎える「用意をし」なかった。

 -主イエスは、不意に訪れる終末の裁きに対していつも目覚めて「用意する」ように

   人々に教えた。

 -主イエスは、受難を前にして、過越の食事を「用意させ」た。

 -主イエスは、自らの十字架によって、万民のための救いを「用意し」た。

 -主イエスは、神の国そのものを「用意し」た。

 神がまず「用意してくださっている」。そして、人間がその「用意してくださっている」ものを受け入れる「用意をする」ときに、そこに天の国が実現し始める。天の国とは、どこか天の上にある場所のことではない。神の呼びかけとそれに対する人間の応答という関係が成立したときに初めて現実のものとなる。

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)-マタイは、この言葉によって自分が所属していた教会に警告する。教会に属するだけでは、救いの保証にはならない。神の招きは決して恒久的なものではなく、招きにいつも応えて生きることによってもたらされる。そもそも神は招きに応える者を礎としてご自分の「教会(エクレシア)」をお建てになった。神の「教会」とは、神が「名指しで呼んで、ご自分のものとして定めたもの」である。つまり、神の「教会」とは、神の呼びかけに応答する人々の共同体、すなわち「神の民」なのだ。その意味で「神の民」とはすでにあるものではなく、呼ばれた者たちが常に努力して目指している理想の姿なのである。