年間第25主日(A年)

福音=マタイ20:1-16


「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16

 

 今日の福音は、マルコの並行箇所との比較から、「永遠の命をめぐるイエスと金持ち、イエスと弟子の問答」と「三回目の受難予告」の間に挿入された、マタイ固有の記事であることがわかる。

 マタイ19-20章全体は、マルコ10章と並行しており、それに続く「エルサレム入城」というイエスの生涯のクライマックスへの序章と言える。エリコの盲人の「ダビデの子よ」(マタ20:30,31)という叫びは、エルサレム入城の際における群衆の叫びの前奏であるかのように響く。そこでは、「天の国」(19:12,14,2320:1)への帰属ということが終末的次元-「人の子が栄光の座に座るとき」(19:28)、「王座にお着きになるとき」(20:21)-の中で述べられている。19章と20章を結ぶ、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(19:30)および「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16)という言葉もこのような終末的次元を示す。

 マタイ19-20章において、以下のような構造を見ることができる。

19:1-12,13-15,16-22では、「天の国」への帰属にふさわしいものとして、いわば「貞潔・従順・清貧」があげられる。ところで19:16-22において、金持ちの青年は、「永遠の命を得るためには、どんな(ティ)善いことをすればよいのでしょうか」と問う。これに比較されるのは、19:23-30における「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何(ティ)をいただけるのでしょうか」というペトロの問いです。「たくさんの財産を持っている」者と「何もかも捨てた」者という大きな違いはあるが、永遠の命(天の国)は、自分の行為の報酬として与えられるものであるという理解については五十歩百歩と言える。「貞潔・従順・清貧」も報酬を当てにしてのことであるならば、「先にいる者が後になる」。

 今日の福音(20:1-16)において、夜明けから三時までの間に雇われた人は、各々が「ふさわしい賃金」の支払いを約束されて働いた。ところが、最後に雇われた人は、賃金のことは何も約束されずに働いた。先の者にとっては、賃金は自分の働きに対する当然の報酬だったが、後の者にとっては、賃金は予想外の恵みだった。「天の国」とは、報酬として与えられるのではなく、あくまで恵みとして与えられるものなのだ。こうして「後にいる者が先になる」。19:23-3020:1-16には、この「報酬」と「恵み」のコントラストが見られる。イエスの死と復活が、「報酬」から「恵み」へと私たちの理解を転換させてくれるのである。