年間第22主日(B年)

福音=マルコ7:1-8,14-15,21-23


「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8

 

 「ファリサイ」とは元来「分離された」という意味である。律法を厳格に守って生きる者は、そうでない者とは別世界の人間であるいう意識がそこに現われている。「聖」とは元来、神にのみ許される属性であり、人類救済の使命を担うべく神から選ばれた「神の民」は、この神の聖性ゆえに「聖」でなければならないとされる。「神の民」自身が「聖」なるものではなく、「聖」なるものは神だけである。「神の民」とは、神の聖性を映し出す、いわば鏡のようなものだ。きれいに磨かれた鏡がよく像を映し出すように、神の民も神の聖性をよく映し出すためには、きれいに磨かれねばならない。こうした考えから、さまざまな規定が生まれた。律法は神の民がその使命を果たすことができるように、具体的な生活の中から必要に応じて作り出されたものである。

 したがって、そこでは通常考えられるような「聖と俗」の二つの世界が想定されているわけではない。だが、こうした神の民の生き方は、実際には高度の緊張を強いられる。そこで、自らを「聖」とし、他を「俗」と見なす考え方に容易に変質していく。そのとき、律法はもはや神の聖性をより良く映し出すための手段ではなく、「俗」なるものから自らを「聖」なるものとして隔てる手段に過ぎなくなった。イエスの時代の状況はまさにその典型であり、イエスの批判はそこに向けられる。

 こうした「聖と俗」の隔てを撤廃することがいかに困難であるかは、その後の教会の歩みを振り返れば容易に見て取ることができる。神の国と教会の同一視は、自らを「聖」と見なし、世俗と区別する考え方に再び変質していった。こうした誤った軌道を修正しようとしたのが、まさに第二バチカン公会議だった。それは「教会と現代世界」という見方から「現代世界における教会」という見方への一大転換である。このような「世界のただ中にある教会」という見地を反映して、ミサ中の平和の祈りは「全世界のため」(主の祈りの副文)→「全教会のため」(教会に平和を願う祈り)→「個々の教会のため」(平和のあいさつ)という三段階から成る。私たちが日々の暮らしの中で遭遇するさまざまな悩みや苦しみ、そしてそこから発せられる神への祈りは、世にある教会全体のそれでもある。神の民の「聖性」とはまさにこうした私たちの日々の営みを通して世に現われると言えよう。