年間第22主日(A年) 

福音=マタイ16:21-27


「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23

 

 今日の福音をマルコおよびルカと比較すると、マタイの特徴として次のような点をあげることができる。

1)「このときから始められた」(21節)によって、ここからイエスの生涯の新たな段階が始まったことが示される(マタ4:17参照)。

2)ペトロのいさめの言葉を伝えている(22節)。マルコはペトロのいさめの言葉を伝えていない(8:32)。ルカはこの部分を欠く。

3)マタイもマルコもイエスの叱責の言葉を伝えているが、「あなたはわたしの邪魔をする者」はマタイだけに見られる。ルカは当然この部分も欠く。

4)マルコでは、ペトロは弟子たちと区別され(8:33)、弟子たちは群衆と結びつけられているが(8:34)、マタイでは、ペトロは弟子たちから特に区別されていない(23,24節)

 先週の福音において、教会の礎と呼ばれたペトロが、ここでは一転して「サタン」と呼ばれている。なぜなら、ペトロがイエスの受難予告を受け入れられなかったからである。イエスの弟子とは、自分自身のことに心を掛けず、ひたすら神のことに心を掛けて、「イエスの後について行く者」のことである。受難予告を聞いて動揺したペトロは、この大切なことをすっかり忘れてしまい、思わずイエスの前に出て、イエスの行く手をさえぎる者となったのだ(23節)。そこでイエスは、ペトロに「サタンよ、わたしの後ろに退け」と言った。「サタン」とは、「神の行く手をさえぎろうとする者」のことなのだ。

 ところで、「イエスは振り向いてペトロに言われた」とある。マルコでは「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」(8:33)とあって、文字通りイエスは、後ろにいるペトロと弟子たちの方を振り向いたと言える。これに対して、マタイはただ「振り向いて」とだけしか言われていない。もし上で述べたように、ペトロがイエスの前に出ていると考えるなら、「振り向く」をどのように理解したらいいだろうか。「振り向く」と訳されているギリシア語「ストレフォー」とは、「それがあるべきところに向く」という意味を持つ。つまりイエスが「振り向いた」とは、イエスが「ペトロが本来いるべき位置、すなわち自分の後ろの方を向いた」ということを表しているのだろう。

 弟子は、いつもイエスの後に従っていなければならない。自分のことを心に掛けて、イエスの前に出てしまうならば、イエスの歩みを妨げるものになってしまう。人は「イエスの後ろ」という本来いるべきところにいるときに初めて「命を見出す」(25節)ことができるのだ。