年間第20主日A年

福音=マタイ15:21-28


「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(マタイ15:28

 

 今日の福音は、異邦人であるカナンの女の娘の癒しを語る。マタイ福音書には、異邦人に対する癒しの物語が二つ見られる。それは、今日の福音と、「百人隊長の僕の癒し」(8:5-13)である。この二つの物語には、他の癒しの物語には見られない特徴がある。それは、「癒しの間接性」だ。イエスはカナンの女や百人隊長からその娘や僕の病気を癒すことを求められ、癒しを与えるが、イエスは娘や僕に直接会うことはない。それはこの癒しが、癒される当人ではなく、母親や百人隊長の信仰の立派さによることに応じているのかもしれない。このように考えるならば、「癒しの間接性」とは、癒される側からは「信仰の間接性」とも言える。

 二つの物語の他の共通点として、どちらもその後にイスラエルの多くの病人を癒す物語が続き(15:29-318:14-17)、そこに「異邦人の癒し」と「イスラエルの癒し」の対比が示されていると言える。しかし、両者には明らかな相違も見られる。「百人隊長の僕の癒し」では、イエスは自ら積極的に癒しに出かけようとするが(8:7)、「カナンの女の娘の癒し」では、イエスは「ためらい」を示す(15:23,24,26)。ここに、癒しが行われた場所-カファルナウムとティルス-、すなわちイスラエルと異邦の対比を見ることもできるだろう。「百人隊長の僕の癒し」では、癒しの対象は異邦人だが、癒しの場所はイスラエルであるのに対して、「カナンの女の娘の癒し」では、癒しの対象も場所も異邦であることが、このような相違の背景として考えられる。

 ところで、この二つの異邦人の癒しの物語を、他の共観福音書-「百人隊長の僕の癒し」(ルカ7:1-10)および「シリア・フェニキアの女の娘の癒し」(マコ7:24-30)-と比較すると、マタイが語るこの二つの癒しの特徴がもう一つ見えてくる。ルカとマルコでは、癒しは「家に帰ってみると」(ルカ7:10/マコ7:30)初めてわかるが、マタイでは、イエスが語った「そのとき」(15:288:10)癒された、とある。マタイは明らかに癒しの「とき」を強調している。

 神がもたらす救いは、イスラエルにとどまらず、異邦人にももたらされることは、旧約時代にも知られていた(イザ56:6-7)。しかし、それは「イスラエルの救い→異邦人の救い」という順序を前提としていた。イエス自身も、神の救いはまずイスラエルに実現されると考えたはずだ。だからこそイエスは、今日の福音では、癒しを与えることに躊躇する。しかし、イエスは癒しを求める異邦人の信仰を理解できない弟子たちの妨げにもかかわらず、この異邦人の信仰に動かされて癒しを与える。ここに、新約時代の救いの歴史が先取りされている。新約時代の救いの歴史は、イスラエルを越えて異邦人へと広がっていく。だからこそ、イスラエルの使命が新たに問い直されねばならなかった(ロマ11章)。今日の福音が語る「異邦人に対する癒しの間接性」とは、このような旧約の救いから新約の救いへの前進を予表するものと言えるだろう。マタイが強調する「そのとき」とは、まさにこの新約の救いの「とき」を告げるものなのだ。