年間第19主日C年

福音=ルカ12:35-40


「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(ルカ12:37,38

 

 今日の福音は、主の再臨を「目覚めて待つ」ことを教える。初代教会はしばしば信徒たちに「目覚めて待つ」ように戒める。それは、使徒パウロやペトロの手紙などによく出てくる(1コリ16:13、コロ4:1、1テサ5:6,10/1ペト5:8)。初代教会は主の再臨をかなり切迫したことと考えていた。パウロも最初は自分が生きているうちに主が再び来られると考えていた。初代教会は、主の再臨が近いという緊張感のうちにあったのだ。

 ところで、私たちは時間の世界に生きているが、主の再臨とは、時間を超えた世界の出来事である。私たちにはこの「時間を超えた世界」がどのようなものであるかを理解することはできない。それで、イエスは私たちに「超時間的出来事」を語るときに、これを「時間的出来事」として説明する。それが今日の福音の「目覚めて待つ僕のたとえ」である。

 欧米の言語は文法的な時間(時制)の使い分けが厳密なので、ここでも「時間」が明確に示される。主の再臨のありさまを描く37節はすべて未来形で語られる-「主が来て見出すだろう」、「主は帯を締めるだろう」、「主は食事の席につかせるだろう」、「主は来て仕えるだろう」。

 確かに主の再臨は「時間的出来事」として語られているが、本質的には「超時間的出来事」であることを忘れてはならない。主の再臨をめぐる緊張感は、それがいつ起こるのかという「時間的」な問題ではない。もし主の再臨を時間的にだけ理解していると、「偽預言」に惑わされかねない。主の再臨をめぐる真の緊張感は「超時間的出来事」と「時間的出来事」の間に生じると言えるかもしれない。

 37節で主の再臨が「時間的出来事」として未来形で語られるのに対して、40節では、「人の子が来る」と現在形で断言される。それは「思いがけない時に」、「あなたがたが考えない時間に」、すなわち「超時間的」に言われる。

 主の再臨とは、今日の第2朗読で読まれる『ヘブライ人への手紙』の冒頭で言われている「見えない事実」であるが、主は自ら給仕してくださる終末的祝宴の先取りとしてのミサを私たちに残された。ミサのなかで、「かつて来られ、今来られ、再び来られる」主と私たちは出会う。