年間第15主日

福音=ルカ10:25-37


「行って、あなたがたも同じようにしなさい」(ルカ10:37

 

 申命記の思想がイスラエルの歴史のなかで現実化するのは、紀元前622年のヨシア王の宗教改革のときである。この改革は偶像礼拝的要素を一掃して、エルサレムの聖所を中心としたヤーウェ信仰を確立しようとするものだった。これによって、イスラエル宗教を支える二つの柱は、エルサレム神殿とモーセの律法となった。申命記改革の精神は、契約の「祝福と呪い」に見られるように、律法を遵守すれば祝福され、怠れば呪いが与えられるという倫理的合理主義の立場に立つ。律法は、それを実行しようとする各人の決断と意志さえあれば容易に遵守されるものと考えられている。そこには、人間の倫理的意志に対する楽観的な信頼が見られ、こうした考えの背後には義なる神による歴史支配への信頼がある。

 申命記の思想を担った人々は「選民」としてのイスラエルという意識を強く持っていた。しかしながら、彼らの選民意識は硬直した民族的誇りではなく、神の逆説的恩恵を前提とする(申7:6-7)。このような思想は、古代オリエントの弱肉強食の現実の中で、ついには神の正義が歴史を裁き、その支配が貫徹されるものと信じて生き抜く支えをユダの人々に与え、後のユダヤ教正統主義の基礎となった。しかしながら、倫理的合理主義は硬直化すれば表面的な応報主義に堕す危険性を持っていた。

 こうした思想的背景がきょうの福音を理解するための助けとなる。登場人物である律法の専門家、たとえの中に出てくる祭司やレビ人は、イスラエル宗教の中心である神殿と律法を象徴する。それらがいかに硬直化した「律法主義」に堕しているかをイエスはあらわにする。さらに、ユダヤ人が「隣人」(同胞)と見なさず蔑んでいるサマリア人の方が神の選びにふさわしいとさえ言われる。

 「神への愛と人への愛」は、神から人への愛に対する応答である。神ご自身が弱い人間の方に歩み寄って隣人となってくださる。この神の愛に気づき、それに感謝して神の愛に応えること、それが「神への愛と人への愛」だ。それをイエスはその生涯を通して実践された。「行って、あなたがたも同じようにしなさい」と、イエスは私たち一人ひとりに呼びかけておられる。