年間第14主日A年

福音=マタイ11:25-30


「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11:29

 

 紀元前4世紀の預言者(第二)ゼカリヤが告げる、来るべきメシアは「ろばに乗る王」である。その特徴は、「神に従う」、「勝利を与えられている」、「高ぶらない」、「平和」だ。今日の福音では、イエスは「わたしは柔和で謙遜な者」と言われる。これら「高ぶらない」、「柔和な」、「謙遜な」という言葉はいずれも、アニーというヘブライ語の意味領域と重なる。アニーは「貧しい」と訳されることが多いが、その意味領域は日本語のそれとはかなり異なる。アニーは、元来「抑圧された状態」を意味する。この「抑圧された状態」の一つとして、経済的な貧困がある。つまり、日本語の「貧しい」はアニーの意味領域の一部にすぎない。したがって、「柔和」や「謙遜」も、「穏やか」とか「へりくだっている」というような道徳的な徳目を意味しない。「柔和」とは、重荷を負ってもくずおれない「身のしなやかさ」を表し、「謙遜」とは、重荷を負って「身をかがめた」状態を表す。福音の文脈で言うなら、イエス自身が共に「身をかがめて」、「しなやかに」重荷を負ってくださる-だからこそ「わたしの軛は負いやすい」のだ。

 もう一つ大切なことは、この聖書的な「貧しさ」には、神の義が常に寄り添っていることである。「義」(ツァディーク)は、神の側から言えば「恵みの御業」であり、人間の側から言えば、その恵みに応えて「神に従う」ことを意味する。神は「貧しい人」に「恵みの御業」をもたらす。しかもそれは無条件に与えられる。「心の貧しい人は幸い」とイエスが語るとき(マタ5:3)、「自分の貧しさを知っている」かどうかなどということを全く問題にしていない。イエスが語る「救い」の迫力は、「貧しい人」が、その「貧しさ」ゆえに、そのままの状態で無条件に救われる、という点にある。だからこそ「幸い」なのだ。

 「イエスの軛を負い、イエスに学ぶ」とは、イエスが歩んだように「貧しい人」として生きることを意味する。それは単なる「清貧」の勧めではない。抑圧された人からその重荷を解き放ち、人々の間に真の「平和」を実現するという使命をイエスと共に負うことなのだ。