年間第13主日(B年)

福音=マルコ5:21-43


「わたしの服に触れたのはだれか 」 (マルコ5:30)

 

 きょうの福音は、十二歳の娘のよみがえりの奇跡物語と、その間に挿入されている、十二年間病んでいた女性のいやしの奇跡物語から成っている。十二という数は完全数であり、これが二つの救いの出来事を結ぶ鍵である。

 ユダヤ教の祭儀実践では祭儀的清浄さが要求されたので、「血の汚れ」は当然避けるべきであった。

「十二年間も出血の止まらない」女性は単に不治の病というだけでなく、永久的な不浄ということであり、それは彼女が接触した全ての人に及ぶとされた。彼女は祭儀的清浄を再び得るために全財産を使い果たした。聖性を求める律法の実践がいかに人間の聖性と対立するものかがわかる。神の聖性の反映である人間の聖性とは、人間の全体性-人間が人間らしくある状態-において初めて自らを現すものである。全体性(シャローム)であるイエスの存在は、彼女自身をも縛っていた祭儀的清浄の掟を彼女に破らせ、彼女はイエスという全体性に触れることによっていやされる。イエスは彼女に全体性の回復を宣言することによって、祭儀的清浄そのものから彼女を解放する。彼女の新しい生き方のなかに神の国が芽生え始める。

 この新しい生は、イエスが触れたもう一人の女性にも与えられる。イエスによって生を回復されたヤイロの娘は起き上がって歩き出す。それは肉体的な回復であると同時に、「女性」の失われていた全体性の回復でもある。十二歳という年齢は当時のユダヤ人社会において成人女性を意味し、祭儀的清浄の掟を身に負い始める歳でもあった。

しかし、イエスによって回復された全体性を生きる彼女は、もは祭儀的清浄の掟をに縛られることはなかっただろう。

  現代社会に存在する人間の全体性を阻害するさまざまなものからの開放を目指して生きる生き方のなかにこそ神の国がある。