年間第11主日(B年)

福音=マルコ4:26-34


「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」(マルコ4:33

 

 きょうの福音では、神の国とはどのようなものかをめぐって二つの「たとえ」が語られ、さらに「たとえ」を用いて語ることの意味が暗に示される。この二つの「たとえ」は、どちらも神の国を植物の成長にたとえている。

 第一の「たとえ」において、次の二点が明らかにされる。

1)人は植物が成長する原因を知らず、土がひとりでに実を結ばせる。つまり、神の国を成長させるのは、人の力だけによるのではない。

2)植物は次第に成長し、収穫の時が来ると、人は鎌を入れる。つまり、神の国はすでに成長しつつあるが、その完成は終末の時である。

 第二の「たとえ」においては、次のことが明らかにされる。

 神の国は最初は最も小さいものであるが、成長して最も大きいものになる。

ただし、ここでの「たとえ」は二重になっている。一つの「たとえ」は、言うまでもなく、「神の国」の発展が「からし種」の成長にたとえられている。もう一つの「たとえ」は、「からし種」を「土」に「蒔く」ことが、「たとえ」を「人々」に「示す」ことの隠された「たとえ」になっている。そして、この隠された「たとえ」が、「たとえ」を用いて語ることの意味を暗に語る33-34節への橋渡しをしている。そこでは次のことが示される。

 

 人は「種」を知っているが、その「種」を成長させる力の源を知らない。すなわち、人々は「たとえ」を聞いているが、その「たとえ」が指し示すことを知らない。「たとえ」と訳されているギリシア語(パラボレー)は、元来は「側に投げられたもの」という意味である。だから、「収穫の時」は「側に置かれており」、それと同じように「たとえ」も「側に投げかけられている」と言える。ところで、「実り」をもたらすのは、人ではなく神である-「主であるわたしがこれを語り、実行する」(エゼ17:24)。だからこそ、それを知るためにはイエスの説き明かしを必要とする。「御言葉を聞く」とは、こうした成長の一つの過程であると言えよう。パウロが言うように、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10:17)。「御言葉を聞く」ことは、神の国の建設への人間の側からの参与である。そうであるなら、「御言葉を聞く」とは、決して受け身の行為ではなく、積極的な行為と言える。福音宣教の基礎は、何をどう語ろうかではなく、まず、御言葉をじっくりと受けとめることにある。