キリストの聖体A年

福音=ヨハネ6:51-58


「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51

 

 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神による訓練の場である荒れ野に導かれる(申8:5)。荒れ野は、人間の目から見れば、飢え(出16:1-36)と渇き(出17:1-7)の地にすぎない。そこで、イスラエルの民は不平を述べて、エジプトに心を向ける。彼らにとって、エジプトは「パンを腹いっぱい食べられた」飽食の地である(出16:3)。ところで、神がイスラエルの民に約束された地とは、「パンを不自由なく食べることができる」土地と言われる(申8:9)。「不自由なく」とは「欠乏することがない」という意味であり、「食べ飽きること(飽食)」とは意味が違う。イスラエルの民が望む状態と、神が与えようとする状態にはこのような違いがある。だから神は、不平を述べるイスラエルの民に「食べ飽きること(飽食)」を約束するが(出16:8,12)、実際には、毎日自分に「必要な分」だけを食べるようにと命じる(出16:4,16)。このように考えるならば、荒れ野における神の訓練とは、神の「飽食」と人間の「飽食」との違いを教えることであったと言える。イスラエルの先祖がマナを味わった(ヘブライ語=ヤダー)ことがないと言われているが(申8:3,16)、それはマナそのものを食べたことがなかったというより、神の「飽食」と人間の「飽食」の違いを知ら(ヤダー)なかったということだろう。

 「毎日自分に必要な分だけを食べる」ということには、二つの意味がある。一つは、「皆が一つのパンを分けて食べる」(1コリ10:17)ということである。これには二つの強調点がある。それは食べる「パンは一つ」ということと、「分けて」食べるということだ。ここに霊的な意味にとどまらない、社会的な開きがある。人間に与えられているものはすべて神から与えられた一つのものであり、だから、それは一部の人間が独占するものではなく、すべての人に平等に分けられるべきものなのだ。「南北問題」に対してプロテストする聖書的な根拠がここにある。

 もう一つの意味は、神が与えるパンとは、神のことばであるということだ。「毎日必要な分」(出16:4)とは、直訳すると、「その日に(必要な)一日のダバール(物事・言葉)」となる。つまり、人は「日ごとに与えられる神のことばを食べる」ということなのだ。

 キリストの聖体には、まさにこの二つの面がある。「ことばの典礼」で神のことばをいただいて、それを食べることができる人、すなわち神のことばを信じる人だけが、キリストの聖体をいただいて食べることができる。聖体をいただいて食べるということは、聖体拝領の瞬間だけを意味しない。ミサ全体において、神のことばであるキリストの聖体を拝領するのだ。そしてミサ全体において聖体を拝領した私たち一人ひとりがキリストのからだに与る者となる。こうしてキリストと一つになった私たちは、社会の中で出会う隣人に自分自身を分かつ者となる。キリストの聖体は、裂かれて与えられるときにそこに初めていのちをもたらすように、私たち自身が裂かれるときに初めて、そこにいのちをもたらすことができる。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るとき、「わたしたち」に込められた連帯の心を忘れてはならない。