カトリック教会はマリアについて何を教えているか

 主任司祭 椎尾匡文

 

 今年度の高蔵寺ニュータウンキリスト教連合会は、三教会の司牧者が各自のテーマでお話をしました。カトリック教会の回は表題のテーマで、「マリアの処女性に関する聖書と伝統の教え」、「マリアの救いの業への協力に関する神学的理解」、「無原罪のやどり」の教義、「被昇天」の教義についてお話ししました。今号では、降誕祭にちなんで、「おとめ」マリアに関する聖書の教えを概説します。なお、教義に関しては別の機会にまとめて掲載します。

  

(1)マタイとルカ福音書

  マタイとルカはイエスの幼年物語を伝えている。両者は本質的には一致しているが、細かい点ではかなり異なっている。したがって、両福音書の間に資料的な依存関係を見るよりは、より古い資料源があったと見なすべきである。両者には以下のような共通点がある。①イエスは処女マリアから生まれた。②マリアはヨセフ(ダビデ家の人)の許嫁であった。③マリアの受胎は聖霊による。④イエスはメシア(キリスト)、イスラエルの救い主である。⑤イエスの誕生は、旧約の預言者によって与えられていた約束の成就である。⑥イエスはベツレヘムで生まれた。⑦イエスはナザレで育った。ただし、マタイにおいては、もともとベツレヘムにいたという印象を与えるが、ルカにおいては、もともとナザレにいたが、人口調査のためにベツレヘムに行ったことになっている。アラム語的表現は、幼年物語の背後に、パレスチナの共同体における古い伝承を想定させる。二つの幼年物語に対する20世紀初頭の詳しい研究は、その背景に異教の神話を想定したが、最近の研究はこのような考えに対して否定的である。

1)マタイ1:18-25

 マタ1:1-17の系図は、イエスの誕生が聖霊の業であることを示している(1:16)。イエスの誕生はヨセフの立場から書かれている。イエスの誕生は、イザ7:14(七十人訳)の成就と考えられている―「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(1:23a)。ここでの「おとめ」は七十人訳ではπαρθένος(パルテノス)「処女」であるが、ヘブライ語聖書では עלמה(アルマー)「若い女」である。処女懐胎は、イエスの誕生が上からの賜物であることの「しるし」である―ヨセフは「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」(v.25)。

2)ルカはマリアのことを細かく描いている。

 a)1:26-38(マリアにイエスの誕生が予告される)―マリアは「恵まれた方」と呼ばれる(v.28)。

「わたしは男の人を知りませんのに」(v.34)。「いと高き方の力があなたを包む」→生まれる

子は「神の子」と呼ばれる(v.35)。マリアの受諾―「この身に成りますように」(v.38)。

 b)1:39-56(マリアとエリサベトの出会い)―マリアは「女の中で祝福された方」(v.42)=女

の中で最も祝福された方。「信じた方は、なんと幸いでしょう」(v.45)。「いつの世の人もわた

しを幸いな者と言うでしょう」(v.48

 c)2:1-20(イエスの誕生)―マリアは「思い巡らしていた」(v.19)。

 d)11:27-28(真の幸い)―「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(v.27)→「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(v.28)。

 ※「マリアは、神のロゴスを心にも体にも受けたが、体に受けたロゴスよりも心に受けたロゴ  

  スの方がもっと大切である」(アウグスティヌス)。

(2)ヨハネ福音書

  マリアという名を出さず、「イエスの母」と呼ぶ。カナの婚礼において、マリアの願いに応えて、奇跡を行う(2:1-11)。十字架のそばに立つマリア(19:25-27)―どちらも、イエスの「時」と関係がある。

(3)ガラ4:4-6

御子の派遣のために、一人の女性が大きな役割を果たした(cf.教皇ヨハネ・パウロ二世

回勅『レデンプトーリス・マーテル』1987年)。