2019年4月7日 福音によせて

四旬節第5主日(C年) 

 

福音=ヨハ8:1-11


「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハ8:7

 

 きょうの福音を通して、罪のゆるしについて、またゆるしの秘跡について考えてみたい。

 まず、きょうの福音の場面を想像してみよう。姦通の罪で捕えられた女は、真中に立たされ、イエスはこの女を間にはさんで人々と向き合うことになる。そして話の方は女を間にはさんだままイエスと人々の間で展開していき、この女は最後にイエスに問いかけられるまで沈黙のままである。つまり、きょうの福音は、罪のゆるしについてゆるされる側(罪の女)よりもゆるす側(イエス)を中心にして語られる。それは神の愛である。その意味できょうの福音は先週の福音(放蕩息子のたとえ)とテーマを同じくする。罪のゆるしは御父の憐れみから生じるのであり、ゆるしの秘跡とはまさにこの神の愛を体験できる場と言える。他方において、ゆるされる側(罪の女)のことも話の展開の中に読み取ることができる。女の沈黙の中に私たちは多くのことを聞き取れるはずだ。

 ゆるしの秘跡において、告白者には①悔い改め→②罪の告白→③償い・生活の改善という不可欠な三つの要素があるが、きょうの福音ではこれらのことが主に「沈黙」の中で語られている。

 さらにこの福音は、罪の社会性と罪のゆるしの共同体性についても示唆を与える。もう一度福音の場面を思い起こしてみよう。イエスは人々を背景にして一人の罪の女と向き合っている。一人の女の罪は彼女一人の罪ではなく、彼女を取り囲んでいた人々の罪でもあったのだ。個人の罪は社会全体の罪でもある。そして一人の女の罪のゆるしが、彼女を取り囲んでいた人々すべてを回心に導いたように、一人の罪のゆるしは共同体全体を回心に導く。

 きょうの第一朗読の中で第二イザヤは「初めからのこと」、「昔のこと」ではなく、「新しいこと」に目を向けよ、と語る。第二朗読でパウロは「後ろのものを忘れ、前のものに前身を向けよ」と語る。しかし、このことの根拠はあくまで神の愛にある-「神が捕らわれびとをシオンにもどされた」(答唱詩編)、「心からわたしに立ち戻りなさい。わたしは慈しみと恵みにあふれる神」(詠唱)-。ゆるしの秘跡は、立ち戻らせてくださる神への感謝に私たちを導く愛の秘跡である。