2018年1月28日 福音によせて

年間第4主日(B年)

福音=マルコ1:21-28


「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1:27

 

 今日の福音によると、イエスの権威ある教えを聞いた人々は非常に驚いたとある。なぜなら、イエスの言葉が「汚れた霊」をも従わせるほどのものであったからである。言い換えるならば、イエスの教えは単なる言葉ではなく、「汚れた霊」を追い出す業によって現実のものとして人々に示されたからだ。

 ルカ福音書(4:31-37)にも同じ出来事が見られるが、そこでは「教え(言葉)と業」ということを、「権威(エクスーシアー)と力(デュナミス)」と表現している(4:36)。ところで、「力(デュナミス)」とは、力の本源に先天的に備わった身体的・精神的な力、すなわち天性の力のことであり、それは人間の自発的な行為や力ある業あるいは自然現象の中で現れるものであり、いわば「自然的な力」を意味する。これに対して、「権威(エクスーシアー)」は、対人関係においてのみ使われ、ある組織の中で占める地位に基づいて、当然行使できるものとして与えられた権能を表しており、いわば「社会的な力」を意味している。

 イエスの「力(デュナミス)」は、彼がメシアであることから生じる。一方、イエスの「権威(エクスーシアー)」は、彼が父である神から遣わされたことに基づく。イエスは復活して上げられた後に、天と地の一切の権能を神から与えられた。そして福音を告げる使者にその権能を与えて、彼らを派遣する。福音宣教者に譲り渡された権能は、イエスの権威がそうであったように、決して上から支配する権威ではない。それは、神以外のものに縛られることのない絶対的な自由なのだ。しかしながら、私たちはまだ古いアダムの肉に縛られた存在でもあるので、再び「汚れた霊」に縛られてしまうことに対して常に警戒する必要がある。

 私たちには、イエスのように、「汚れた霊」を一言で追い出してしまうような「力(デュナミス)」はないが、キリストから派遣された福音宣教者として、キリストの「権威(エクスーシアー)」が与えられているはずだ。そして、「権威(エクスーシアー)」が社会的な力であるならば、それは単に個人的な救いだけにかかわるものではなく、社会にも向けられている。つまり、キリストの「権威(エクスーシアー)」は、現代世界に中に存在する様々な「汚れた霊」に立ち向かっていく力でもある。私たち一人ひとりが「汚れた霊」に立ち向かっていく「権威(エクスーシアー)」を与えられていることを改めて思い起こそう。