2017年11月19日 福音によせて

年間第33主日(A年) 

福音=マタイ25:14-30


「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:15

 

 マタイ福音書2425章は、終末の諸相について語る。ここでの中心は、終末の時の「不測性」と、「不測性」ゆえに要求される神への「忠実さ」-それは、「目覚めている」と「用意する」という二つの言葉によって示されている-ということである。

 今日の福音である「タラントンのたとえ」も、確かに終末の諸相の一つとして語られているが、このたとえのすぐ前に語られている「十人のおとめのたとえ」(25:1-13)や、「タラントンのたとえ」の並行箇所であるルカ福音書の「ムナのたとえ」(19:11-27)と比較したとき、それらが終末の時の「不測性」と神への「忠実さ」を中心テーマとするのに対して、「タラントンのたとえ」は神の人間に対する「信頼」と、それに対する人間の応答ということが中心テーマとなっている。言い換えれば、人間の神への「忠実さ」は、神の人間に対する「信頼」への応答なのだ。

 ある人が「旅に出る」ときに、自分の莫大な財産を僕たちに託せるのは、僕たちを信頼しているからだ。これと同じ「信頼」は、マタイ福音書において「ぶどう園と農夫のたとえ」(21:33-46)にも見られる。ここではある主人が農夫たちに託して「旅に出る」主人の姿に、神の人間への「信頼」が示されている。主人の「信頼」をくみ取り、それに応えようとする者にとって、主人の帰還は主人への「信頼」を示すことができる喜びの時となるが、主人の「信頼」をくみ取れず、それに応えようとしない者にとっては、主人への「不信頼」があらわになる災いの時となる。

 終末の時は、確かに人間には予測できないものである。主に信頼せず、忠実でない者にとっての「安全保証」には何の根拠もなく、終末の時の「不測性」は闇となる。しかし、主に信頼して忠実に生きようとする者にとって、「不測性」は決して闇とはならない。なぜなら、何よりも神の「信頼」が「安全保証」となり、光をもたらすからだ(1テサ5:1-5)。終末の時の「不測性」は主に信頼しない者にとっては恐れを生じさせるが、主に信頼する者にとっては神との信頼関係をより強めるものとなる。