2017年1月29日

年間第4 主日(A年) 

福音=マタイ5:1-12a


「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3

 

 今日の福音の直前のペリコペ(マタ4:23-25)では、イエスの時代のガリラヤの社会的状況とそこでのイエスの活動が総括的に語られる。当時、大多数のガリラヤのユダヤ人たちは、生活基盤である土地(嗣業)からの「根こぎ」状態にあった。経済的な貧困もさることながら、それは神との契約を十全な状態(シャローム)に保つ具体的な基盤の喪失であり、神との関係の断絶を意味した。その原因は、主にエルサレムの権力者たちの収奪と、さらにそれを支配するローマによる属国への圧政にある。

今日の福音は、そのようなガリラヤの「貧しい人々」に向けてイエスが語る「福音」であり、マタイでは長い「山上の説教」(5:1-7:29)の冒頭部分を成す。1-10節が韻文的、11-12節が散文で書かれ、前者は3-6節と7-10節が逆対応する構成になっている。全体が「法の授与」という枠組みで語られる。話の舞台は「山」である。古代オリエントにおいて「山」は神が王に法を授ける場である。ハンムラビ法典が刻まれた石碑の上部のレリーフには、ハンムラビ王が神から法を授かる姿が描かれている。左側に立つのが王で、右側、方形の台状のものに座すのが神であるが、この「方形の台状のもの」は「山」を表すとされる。こうした約束事に従って、モーセはシナイ山で神から掟を授かり、イエスは山で人々に教えを授ける。「山上の説教」で提示される「幸い」は通俗的な「幸福」とは趣を異にする。八つの幸いのそれぞれの上句と下句をつなぐ接続詞ホティは「なぜなら」を意味し、上句の「幸い」の理由が下句で示される。いずれの「幸い」も社会的な「ひずみ」の回復によってもたらされるのであり、それはとりもなおさず、神とのあるべき関係性が回復されること、シャロームの回復である。誰がどのように回復するのか。究極的には神が終末的方法で回復することが切望されるが、それだけでは十分ではない。契約仲間である人々の具体的な働きを必要とする。イエスはそのことを人々に思い起こさせ、それを実現させるヴィジョンもあったはずだが、人としては挫折に終わった。しかしこのヴィジョンはその後の歴史の中で、これに賛同する人々に託され続けてきた。キリスト者とはこの委託の連環に連なる人々のことである。

<画像:ハンムラビ法典(ルーブル美術館所蔵、横0.9m×縦2.25m)>