2016年12月11日(日)

待降節第3主日A年

福音=マタイ11:2-11


「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11

 

 回心(メタノイア)の動機で水に沈むということは、ユダヤ教ではすでに昔から知られていた。当時は自分自身が水に沈むというのが普通であったが、ヨハネは求める人に洗礼を授けた。それゆえ彼は「洗礼者」と呼ばれた。ここでは「ヨハネの」洗礼が重要なのだ。ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(マコ1:4)、「悔い改めに導くために…洗礼を授け」(マタ3:11)た。神から遣わされたヨハネから洗礼を受けるということは、神によって自己を変えられることである。というのも人はこれを自分ですることができないからである。悔い改めはここでは、神からの恵みを意味する(マタ21:25)。

 彼のメッセージは、当時ユダヤ教内部にあった三つの大きな待望に対する正面攻撃であった。その三つとは、ヤーウェの敵、すなわちイスラエルの敵の絶滅という終末的待望、それからイスラエル自身の最終的勝利と世界支配、そしてアブラハムへの約束に基づく救いの保証であった。

 未来はヨハネにとってもっぱら神の可能性である。もっぱら未来を指向することは現在を意味づける。つまり回心はここで、「今日」の問題である。したがって、ヨハネは終末待望の表象を正しい生き方への要請と結び合わせたと言える。終末論はヨハネによって倫理的・宗教的訴え(アピール)となる。神の未来は倫理と結ばれる。

 ヨハネは未来待望と倫理的・宗教的生き方とを内的に相互に結び合わせた預言者であるが、それはもっぱら裁きのパースペクティブからであって、神の愛と恵みという宗教的パースペクティブからではない。この点がイエスと洗礼者ヨハネの根本的相違なのだ。

(参考文献:E.スヒレベークス著、ヴィセンテ・アリバス/塩谷淳子訳『イエス 一人の生ける者の物語 第一巻』新世社 1996年)

マルコ(6:14-29)とマタイ(14:1-12)が描く「洗礼者ヨハネが斬首される」話は史実ではなく、ヨハネの弟子たちによる創作と言われる。史実としては、ヨセフスの報告(『ユダヤ古代史』18:119)の方に信憑性がある。それによると、ヨハネのもとに結集した群衆が、ヘロデ・アンティパスに対して反逆行為に出る可能性があったので、彼を死海の東、ヨルダン川の近くにあったマカイロスの砦に投獄し処刑した、と伝えられる。