2018年9月16日 福音によせて

年間第24主日(B年)

 

福音=マルコ8:27-35


「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34

 

 「キリスト」は、ヘブライ語のメシア-「油を注がれた者」-のギリシア語訳であり、名前ではなく称号である。旧約聖書ではさまざまな職務の者が「油を注がれた者」とされたが、徐々に王を指す称号となった。油を注ぐことによって、神から委ねられた特別な職務を果たす力が与えられると考えられた。

 イエスの時代のユダヤ教がもっていたメシア待望はきわめて多様だったが、共通して言えることは、メシアとは、異邦人の支配を打ち払い、ダビデ王朝を再興する力あるメシア、すなわち王だった。それはときに「獅子」の象徴で表された。

 しかし旧約聖書には、これとは異なる思想的系譜として、きょうの第一朗読の第二イザヤに見られる「苦しむ僕」があり、それは屠られる「小羊」と表現される(53:7)。この系譜は底流として受け継がれるが、表面的にはあくまで「力あるメシア」だった。

 したがって、イエスの弟子たちも「力あるメシア」像に縛られていた。イエスの受難予告によって示された「十字架に上るメシア」などということは、弟子たちの理解を越えるものだった。それで、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えたにもかかわらず、イエスの受難予告を聞いて、こともあろうにイエスをいさめたりした。イエスの弟子とは「イエスの後について行く者」のことである。これを忘れたペトロは、イエスの前に出て、イエスの行く手をさえぎる者となった。そこでイエスは、ペトロに「サタンよ、わたしの後ろに退け」と言われた。

 マルコにとって、イエスが誰であるかを語ることは、イエスをメシアと告白する者の生き方を示すことでもある。マルコが、イエスは十字架に上るメシアだと語るとき、それはイエスに従う者の歩む道を私たちに示すためである。イエスをメシアと告白する者もまた十字架の道に従わねばならない。十字架を理解せずに行なわれる信仰告白は、ペトロのように、イエスから「引き下がれ」と退けられる。その意味で、信仰告白とはイエスの道を歩もうとする決意表明である。第二朗読の『ヤコブの手紙』が語る「行ないの伴う信仰」とは、まさにこのことである。