2018年12月9日 福音によせて

待降節第2主日(C年) 

 

福音=ルカ3:1-6


「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:6

 

 旧約時代に、預言者たちは繰り返し、イスラエルの悔い改めを人々に訴えた。預言者たちは、神への背きから神に立ち帰ることを要求した。悔い改めとは、自己の全存在をもって神へと方向転換することであり、それによって神との人格的交わりを回復することである。

 イエス時代のユダヤ教においても、悔い改めが強調されていた。それは、メシアの到来がいつ実現するかは、イスラエルの悔い改め如何による、すなわちイスラエルが悔い改めれば神の国は近づくと考えられていたからだ。

 洗礼者ヨハネは、旧約の預言者と同じように悔い改めを呼びかけた。しかしながら、彼が直ちに悔い改めるように呼びかけた理由は、旧約の預言者と異なっている。ヨハネは、今、神の国が近づいているがゆえに、それをふさわしく迎えるために悔い改めを呼びかけた。悔い改めの根拠は、神の国が近づいていることそのものにある。そして、彼は悔い改めを呼びかけるだけではなく、悔い改めのしるしとして洗礼を授けた、この悔い改めの洗礼は、イエスによる罪のゆるし、すなわち救いへの準備をなすものだった。洗礼者ヨハネの宣教はまさに新約時代の幕開けを告げるものだった。

 その意味で、イエスの宣教は洗礼者ヨハネのそれを受け継ぐものである。しかし、ヨハネとイエスの間には、はっきりとした違いがある。すなわちイエスは、ご自分が来たことによって神の国が実現し始めていると主張した。悔い改めはもはや律法への忠実ではなく、イエスに対する忠実を意味することになる。したがって、悔い改めの呼びかけは、イエスに従うことへの呼びかけとなる。

 神はご自分に立ち帰るように人間に呼びかけるだけではなく、立ち帰る力をも与えてくださる。イエスにおいて新たな命が与えられ、それによってイエスに従って生きることができるようになる。このように考えるなら、新約における悔い改めは、人間に対する神の命令というより、むしろ神の恵みであることがわかる。だからこそ、悔い改めの要求がいかに厳しいものであっても、それは喜びとなる。そしてそれが恵みであるからこそ、救いはすべての人に開かれているのである。

 ルカはきょうの福音のなかで、イザヤの預言を引用するが、他の福音書と異なり「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という箇所まで引用して、このことを強調する。神の救いは自力で得られるものではない。救いは神ご自身が用意してくださる。神の救いとはそれほど確かなものなのだ。