2018年4月22日 福音によせて

復活節第4主日(B) 

福音=ヨハネ10:11-18


「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14

 

 新約聖書学者のレイモンド・E・ブラウン神父は、ヨハネ福音書の教会論を論ずる中で、次のように述べる。

 

 キリスト者はイエスへの信仰を通して存在する者となったのですから、生き続けるためにはイエスにつながっていなければなりません。1世紀の終わりごろ、新約の著者の幾人かはイエスを教会の建設者として、土台として、あるいは、かなめ石として描いていました(マタ16:18、エフェ2:20)。そのイメージは重要な洞察を含んではいますが、建築用語を使ったために、幾分、意味が狭くなっています。今ある建物を建設した者が仕事をしたとしても、それは過去のことであり、今は思い出でしかありません。かなめ石は、建築中には必要でしょうが、建物ができ上がってしまったら、何の働きもせず、その存在について考える者はいません。言い換えれば、建築のイメージは教会にとってのイエスを過去のもの、あるいは、何の働きもしない存在にしてしまうのです。ヨハネはそのようなイメージをすべて避けました。イエスはぶどうの木であり、キリスト者はぶどうの木から生命を受けている枝です。イエスは共同体の礎である以上に、生命ある根源であり、今なお共同体の中心となる「生命の源」なのです。イエスは自分の羊の世話をする羊飼いであり、羊たちを知っており、それぞれを名前で呼びます。永遠の生命を得るために、人は羊飼いに従い続けるか、ぶどうの木につながっていなければなりません(ヨハ10:27-28,15:2-6)。これは特色あるキリスト論によって形造られた教会論です。ぶどうと羊の群れという集合的なイメージの中にあって、その教会論の中心は、神から降りて来られた生命を与える方と一人一人との、今も続いているかかわりなのです。(石川康輔監訳『旅する教会 使徒たちが遺した共同体』ドン・ボスコ社 1998年、P.161-162